2012年8月2日木曜日

『星野道夫著作集』


『星野道夫著作集』
すこしずつ読んで楽しみしていました。
読み進めたいような、読み終わりたくないようなそんな気持ちの狭間に揺れながら
とうとう5冊目を読み終えてしまいました。
感動とともに寂しさがあります。
彼が遺した言葉をまとめた5冊です。
どの言葉も心に響いて、どの話しも胸にぐっときます。
胸がきゅっとなって何度も涙がでました。
その中の一つをそのまま彼の言葉で紹介します。
著作集でいうと5冊目の中に綴られています。

「ボブ、昨日のクマの話だけど、何を言おうとしたの。よかったら話してくれないか」
ボブは笑いながらしばらく考えて
「自分の話すことが意味をなすかどうかわからない」
といいながら、フラウンダーを網からはずす手を休めずに話してくれました。

「自分の生い立ちから話そう。父親は自分が四歳の時死んだんだ。
母親はアル中になってしまい、自分が二人の弟を育てなければならなかった。
家庭を含めて人間との関わりの中からは何も暖かいものを得られなかった。
本当に気持ちを休めることができるのは自然だけだった。
それは、どの子どももそうであるように、フィッシング、ハンティングへの興味へとつながっていった。

大人になり、自分はアラスカにいた。ハンティングについて考えた。
生きていくために動物を殺す。それは納得ができた。
けれども楽しみのために動物を殺すということは、自分の考えの中でどうしても整理ができないものになっていた。
きびしいアラスカの自然との生活の中で、生命という問題が離れなかった。
自分の生命、それを取りまく動物の生命は同じ線上にあった。
その考え方は自分にとって絶対的なものだと思っていたんだ。

ある日、シソーリックの近くでクマ(グリズリー)に出くわした。もうずっと昔の話だが。
ここらへんでクマを見るなんてことはほとんどないんだ。何の迷いもなく射った。
はじめてのクマだった。自分はまだ若く、誇らしい気持ちでいっぱいだった。
すべてを生活のために使う。なんの疑問もなかった。

陽が暮れてしまい、その日は皮だけをはがし、キャリーの待つキャンプまで帰った。
そして次の日、その場所に肉をとりに帰ったんだ。すると、なんと同じ場所にまたクマに出くわしたんだ。
迷った。もう十分肉をとったんだ。
シソーリックで昔、一度に三頭のクマをとったエスキモーのことが語り草になっていた。
自分に今、同じようなチャンスがきた。でもそれは自分が信じてきたことと違うのではないか。
しかし、気がつくと引き金をひいていた。クマは急所をはずれ、クマはそのままヤブの中に逃げ込んだ。
血痕がヤブの中に消えていった。

ふと気がつくと、別の方向の丘の上にもう一頭のクマがいるではないか。信じられなかった。
もう止まることができず、射ちまくった。傷ついたクマはヤブの中に消えていった。
自分はいったい何をやっているんだ。パニックになった。陽が暮れてしまった。
翌朝、同じ場所にもどってみると、傷ついたクマが足をひきずりながら山を登っていくのが見え、そのまま視界から消えていった。

このことが忘れられないんだ。あれほど自分が信じていたことを裏切っていた。
子どもの頃家庭に恵まれず、自分がいつも安らぎを求めていた自然を自分が今裏切っていた。
アル中から脱けられなかった母親のことを思った。自分も結局同じではないか。
人間というものは、自分が信じていることとは裏腹に、何と弱いものだろうと思った、、、」

ここまで話して、ボブ・ユールは声をつまらせてしまったのです。
私はどうしていいかわかりませんでした。

星野さんがアラスカで暮らし、アラスカで出会った自然、動物たち、人々との関わりから生まれたひとつひとつの話しは、純粋で繊細で自然であり人間であり
そんな心に触れると、自分の心が癒されて、そしてしなやかに強くなっていくような気持ちになります。

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